現代文・小論文のネタ 其の五

〈地球温暖化〉

二〇〇〇年アメリカ大統領選挙、共和党ジョージ・ブッシュと民主党アル・ゴアは大接戦を演じ、「不透明な真実」のままブッシュが当選しました。で、その後のドラマが始まります。

映画『華氏911』と『不都合な真実』と、両者はスクリーンでも主役を演じることになります。アメリカという国は政治であれ、文化であれ、「光と影」のコントラストが非常に明確なように思われるのですが、その点でも好対照をなす二人であったわけです。

温暖化対策、平和に直結

ゴア氏らにノーベル賞

地球温暖化(気候変動)は世界が緊急に対処すべき問題だと科学的データに基づき主張し続けてきた国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」と、アル・ゴア前副大統領がノーベル平和賞に選ばれたことは決して意外ではない。

 地球温暖化が世界平和を脅かすことは国際社会では共通認識となっている。温暖化に伴う異常気象や海面上昇は食糧危機を増幅し、国土を奪うことで大量の「環境難民」を生み出す恐れがあるからだ。

 二〇〇八年からはいよいよ、京都議定書に基づいて日本など先進国が公約した温暖化ガスの排出削減目標を達成しなければならない「約束期間」に入る。

 今年四月には、国連安全保障理事会が温暖化問題を初めて討議テーマにとり上げ、当時の英外相は「気候安全保障」という言葉を使い、安全保障の観点から各国の行動を促した。先月には国連の潘基文(パンギムン)事務総長の呼びかけで、温暖化問題を首脳レベルで話し合う会合も開かれたばかりだ。この時期の平和賞決定は強いメッセージ性を持つ。

 IPCCは科学者と行政官が同じテーブルについて共通認識を探る先例のない組織として発足。これまで発表した報告書は温暖化をめぐる国際交渉の前提となる科学データを提供し京都議定書を生む土台ともなった。

 一九九七年、京都議定書の採択に向けた交渉が暗礁に乗り上げた時、当時米副大統領だったゴア氏が京都の会議に乗り込み合意に導いた。大統領選に敗れた後は温暖化問題の講演で世界を行脚(あんぎゃ)した。巨大なスクリーンとクレーンを使い、視覚的な効果を高めた講演は彼の話術も相まって共感を集め、米国の世論を動かしたとされる。

 「科学的に見れば誇張がある」と指摘する科学者がいるのも確かだ。しかし温暖化対策は多くの人々の生活スタイルに変更を求めることでもある。科学者が束になっても届かないほど広く「地球環境への危機感」を浸透させた役割は大きい。

 ハイブリッド車などの例をあげ、「環境改善が経済面の利益につながる時代」と説いたのも受け入れられやすかった。

 十二月にインドネシア・バリ島で「ポスト京都議定書」づくりの交渉がスタートする。京都議定書は米国の不参加などで温暖化を抑える実効性を欠く。「京都」が期限切れを迎える(二〇)一三年以降の国際枠組みは人類の存続をかけたものになると言っても大げさではないかもしれない。

 温暖化ガス削減は義務的か自主的か、削減を担う国・地域はどこかなど、各国の意見は依然として隔たりは大きい。だが温暖化が今すぐに対処すべき共通の課題であるという点で、米国のほか、中国やインドなどの途上国を含め世界のベクトルは一致してきている。

今回の受賞は「ポスト京都」の合意に向け、国際社会に結束を促すものだ。

(編集委員 滝順一 氏)…一部ルビ等、筆者補う。 

『日本経済新聞』 2007・10.13(土) 「総合」

科学は仮説をたてて、「実験」で証明することにより「正しさ」を確保します。ところが、地球に関しては「実験」が許されないところが、科学の弱いところです。一部の科学者が言う「地球温暖化と二酸化炭素の増加との因果関係は証明されたわけではない」という意見もありましょうが、仮に「証明」されたところで…、その時にはもう手遅れになっているわけです。

その点、トヨタ自動車のように、環境対策を中心にすえて飛躍的に業績を伸ばした企業があるというのは一筋の光明のように思えます。

二酸化炭素の削減は経済に悪影響を及ぼすとして京都議定書に加わらなかった米国と、まさしく京都から世界に問題を提起した日本。自動車産業において、前者の凋落(ちょうらく)ぶりと後者の躍進を見るにつけ、やっぱりアメリカ人はマイケル・ムーアの言うとおり、「アホでマヌケ」なのではないか…と、もちろんアメリカという国、わたくしは大好きですし、愛してもいます。決して蔑(さげす)もうなどとしているわけではありません。ただあまりに巨大な国家であるため、優れた人物もたくさんいる一方で、アホの数も多いのであろうと想像されるわけです。そのアホの一人が大統領になってしまったのがアメリカの悲劇だったと思うわけです。

人さまの国はどうでもよい、で、日本はどうなんでしょう?権力が声高に環境対策を叫ぶでもなく、コツコツ地道に「もの作り」をして、「人は語らず、モノをして語らしむ」なんてところが、いかにも日本の職人文化らしくて、「粋(いき)」じゃござんせんか?