現代文・小論文のネタ 其の三
〈いじめ〉
「いじめはいけない!」
と、学校の先生が言うのでしょうね。わたくし、黒板を背負っていた時代によく生徒を前にして、
「いじめって正しいよね」
なんてアオリを入れたものですが、もう、猛反発の総スカン、
「先生って、ヒドイ…」
なんて、まるでヒトデナシを見るような視線が突き刺さってきました。
「いじめはいけない」という無反省な大前提が、すでに集団による暴力をはらんでいるのであるよ、と、わたくしなどには思えるのですが…。
先日、レッドソックスに入った松坂が着ぐるみを着せられていました。そういえば、ヤンキースに入ったばっかりの松井も変なカッコさせられていましたっけ。他人のロッカーの荷物を勝手に隠して、コスプレ衣裳だけつるしておくのって、いじめでは…。
まあ、わたくしも共同体研究の一環として、この夏、あちらこちらのお神輿を担がせていただきました。大リーグしかり、日本の下町しかり、異なる共同体の門をくぐろうとすれば、儀礼としてのいじめがあるようです。
「オマエはウチの共同体倫理にしたがうか?」
「へえ、したがいますからお仲間に入れてくだせエ」
のようなことを、「からかい」や「排除」によって確認しているのだろうと思います。
そこでつまらぬ自我を出してムキになったりすると、
「オレ様はオマエらの倫理になんかしたがわねえゼ!」
ということを意味してしまう、で、徹底的に排除されることになります。
「いじめ」は本来、「個人よりも共同体の優位」を確認するために、コミュニケーションの一手段としてあったのではないでしょうか。その一手段でしかなかったものが、「コミュニケーション」という本来の機能を忘れて一人歩きして肥大化したのが今日、問題になっている「いじめ」の本質であるように思われます。
猫や犬を見てみればわかると思いますが、噛みついたり、ケリを入れたりしてコミュニケーションをとろうとします。が、死ぬまではやらない。
わたくし、消防団に入って水出してみたり、睦(むつみ)に入ってお神輿担いだりしているのも、実は、「共同体って何だろう?」という素朴な疑問のためなのでした。
「いじめはいけない!」
というのは、正しくないだろうと、わたくしは思うのです。正しくは、
「死ぬまでいじめてはいけないし、死ぬまでいじめられてはいけない」
だと思うのです。「程度の問題」を「オールオアナッシングの極論」で片付けてしまうのはたやすいですが、「いじめ」がもっていたはずの本来の「コミュニケーション機能」まで捨て去るのはいかがなものでしょうか。「程度=良い加減」がわからなくなっている、ということで言えば、実は「いじめ問題」も「いじめ批判」もパラレルなのではないでしょうか。
問題の本質は、「コミュニケーションとしてのいじめ」を学ぶ場も機会も消失してしまっていることにあると思いますが、いかが?
で、「いじめ問題」に真っ向からとりく…まない。まさしく「良い加減」なブログを紹介させていただきます。
プロの方なので、面白いのはあたりまえなのですが、いじめに苦しんでいる人に向けて、やさしく真摯な態度で語ってくださっています。
ちなみに、もし、わたくしが死ぬほどのいじめにあったら、答えは「あの世ではない、この世のどこかにトンズラ」です。「この世のどこか」が「マンガ」だっていいですよね。