現代文・小論文のネタ 其の四

〈外国人問題〉

わたくしが心から敬愛してやまない研究者に赤坂憲雄(あかさかのりお)先生(東北工科芸術大学教授)、中沢新一(なかざわしんいち)先生(多摩美術大学教授)がおられます。お二方が今、模索なさっておられる研究に「環太平洋文化圏」「環日本海文化圏」というものがあります。

グーグルアースをお持ちの方はよくよく日本列島を見ていただきたいのですが、日本海って、湖みたいに見えませんか?カムチャッカ半島から千島列島、日本列島と朝鮮半島と、背骨のような「ナニカ」が貫いているのがわかるでしょうか?

その図を見て「朝鮮がなっちょらん」の「中国がなっちょらん」の「日本がなっちょらん」の言ってもしょうがないって気づかされないでしょか?

そもそも、こうして漢字を使わせていただいて、なおかつ、漢字をモディファイした「かな」を使って、中国や朝鮮半島をどうこう言っていること自体が、わたくしには滑稽に思えるのですが…。

また、「わび」「さび」の「しみじみとした情趣」の、五七五(七七)と、その「五」「七」の音数って、そもそも漢詩の…と言い出したらキリがなくなります。

皮肉なことに、「アメリカン・グローバリズム」の申し子みたいな「グーグルアース」は、「真のグローバリズム」の姿をあぶりだしてくれるのです。

伊藤真の中・高生のための憲法教室 (連載43)

「外国人の人権」

 九月一日は一九二三年に起きた関東大震災に因んで防災の日とされます。この震災は多くの被害をもたらしましたが、同時に数千人が「朝鮮人」というだけで虐殺されるきっかけとなりました。韓国併合(一九一〇年)以来、日本は朝鮮半島を占領し植民地としていましたが、多くの朝鮮人が生きるために日本に来ざるを得なくなり、労働力として酷使されていきました。

 そうした中で関東大震災に直面した人々は噂やデマに振り回され、「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、放火して回っている」という暴言を信じてしまい、一部の市民や自警団が、治安維持の名目で多くの朝鮮人を殺傷してしまったのです。私たちは天災だけでなくこの人災の被害も忘れてはなりません。

 朝鮮半島や台湾などの植民地に住んでいた人々は、大日本帝国の臣民つまり日本国民であるとされ、日本の国籍を持ち、日本国内では参政権(選挙権、被選挙権)も保障されていました。ただし、日本名や日本語の強要、天皇崇拝などの皇民化政策がとられていたため、民族の独自性や多様性は認められていませんでした。

 戦後、日本が台湾、朝鮮などの旧植民地に関する主権を放棄したことにより、旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます。これにより今まで同様日本国内で生活しているにもかかわらず、参政権や生存権などの社会権(具体的には国民年金や国民健康保険など)も保障されなくなります。

 このように戦前は、強制的に日本人とされ日本民族との同化を強要した上で参政権を認めていましたが、戦後は、強制的に日本国籍を奪い外国人として扱って参政権や社会権を認めません。日本での生活実態が何も変わらないにもかかわらず、国家の都合でこのように人権が認められたり奪われたりしているのです。これはおかしなことです。

 そもそも人権とは何でしょうか。人間である、ただそのことだけで認められる権利であったはずです。とするならば、国籍は無関係であるはずです。外国人であっても人権は当然に保障されているのです。

 ただ、その人権の性質から日本国民のみを対象としていると解されるものは例外的に保障されず、その典型例が参政権と社会権だといわれます。ですが、そうでしょうか。

 そもそも参政権は民主主義原理から保障される人権のはずです。そして民主主義とはその国で支配される者が支配する側に廻ることができる、つまり一国の政治のあり方はそれに関心を持たざるを得ないすべての人々の意思に基づいて決定されるべきだということを意味します。とするなら、日本で生活し、日本の権力の行使を受ける者であれば、その政治に関心を持たざるを得ず、たとえ外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきことはむしろ当然の要請ということになります。

 この点、外国人に選挙権を認めることは国民主権に反すると言われることがありますが、そもそも国民主権というときの国民を日本国籍保持者に限定するべきではありません。むしろ民主主義原理からはそこに生活の本拠を有する市民を広く国民と考えるべきなのです。

 また、生存権や労働基本権のような社会権も同様に、この国で生活している市民である以上は、社会の構成員として当然に保障されるべきです。外国人だからといって、生活保護を受けられなかったり、適切な医療が受けられなかったりするべきではありませんし、低賃金労働力として酷使されても何も言えないというような不合理がまかり通ってよいわけがありません。

 そもそも国家が何のためにあるのか、国家や国籍にこだわる必要がどこまであるのか、人権を考えるときには、常にこうした原点に立ち戻って考える必要があります。

 日本で生活する外国人登録者数は二〇〇五年に二〇〇万人を突破してその後も増え続けています。他にも不法滞在の外国人も相当数いますから、日本で生活する人のうち一〇〇人中二人弱は外国人です。また、外国人との結婚も一七件に一件の割合に及びます。

 民族や文化、風習などの違いを認め、多様性を受け入れながらも、同じ人間としてお互いに尊重し合う、そうした成熟した人間同士の関係を、憲法は個人の尊重(一三条)として保障しています。今なお、外国人を排斥しようとする差別意識が一部に根強い日本だからこそ、八四年前の事件の教訓を大いに生かさなければならないと考えます。
                                    (いとう・まこと 伊藤塾塾長)

雑誌『世界』 岩波書店 二〇〇七 十月号 

伊藤先生は、司法試験などの指導しておられる「伊藤塾」の塾長さん。「中高生」に向けて書いてくださっていますので、わたくしのようなドシロートが「屋上(おくじょう)、屋(おく)を架(か)す」の愚は避けましょう。前途有為な法律家を育てられるお立場として、ほんとうに頼もしいですね。

あえて、付記を書かせていただくならば、後日談。深川の方から隅田川を渡って逃げてきた「朝鮮人」をかくまった方たちがいます。魚河岸を支えてきた方たち、そう、佃の男衆だったのです。まちがっても、日本の歴史の教科書には載っていないでしょうが…。

そのような心優しき民もいらっしゃったことは、わたくしたち「日本人」の胸に服膺して余りあるように思います。まんざら、「日本人」だって捨てたもんじゃないでしょ?

ちなみに、その時かくまった佃の「宮元さん」といわれる島民の末裔の方にお誘いいただいて、わたくし、明日は佃島で、隅田川の川風に吹かれながらバーベキューをいただいてまいります。誇らしか~っ!